イブン・シーナ・・・
エッセンシャルオイル(精油)生産方法の確立

エッセンシャルオイル(精油・アロマオイル)

イブン・シーナ(イブン・スィーナ、アウィケンア、アヴィセンナ)(980〜1037)は10世紀末にペルシャ(現在のイラン)に生まれた科学者です。当時、イスラム世界最高の知識人と呼ばれ、世界の大学者と評された人物でした。イブン・シーナは 「哲学者」「医学者」という肩書で紹介されることが多いですが、数学、物理学、化学、地学、生物学、気象学等の自然科学から、政治学、軍事学、イスラム神学、音楽、博物学に至るまであらゆる分野の学問に精通した科学者でした。西洋世界で言うとレオナルド・ダ・ビンチのような大天才だったとイメージすると分かり易いかも知れません。

エッセンシャルオイル(精油)の水蒸気蒸留法の確立

イブンシーナは980年8月、サーマーン朝(現在のイラン東部、パキスタン西部からカザフスタン南部を支配したイラン系イスラム王朝)の首都ブハラ近郊のアフシャナに徴税官の息子として生まれました。


10歳の時には既に文学作品やコーランを暗証していたとされる神童で、父によって早くから教師をつけられ、哲学、天文学、医学などを学び始めました。習得があまりに速く、教師の知識をすぐに上回ったと言われています。16歳になると早くも医師として患者の診察を始めました。後に著書で「医学は簡単で習得するのにはさして時間はかからなかった」と述懐しています。


まさに天才であったイブン・シーナですが、アロマテラピーとの関連においては「水蒸気蒸留法によるエッセンシャルオイル(精油)の生産方法を確立した人物」として知られています。イブン・シーナは「錬金術」の研究に取り組む中で、水蒸気蒸留によって植物からエッセンシャルオイル(精油)を取り出す方法を確立したとされています。


「錬金術」とは卑金属を金などの貴金属に変える技術のことです。現代人の我々は、これは不可能なことだと知っていますが、古代ギリシャや中世のイスラム、ヨーロッパでは盛んに研究されていました。


「錬金術」という言葉は現代では「不当な手段で大金を稼ぐ」といった比喩的な意味で用いられることが多いため、その研究と聞くと「金儲けのための下賎な試み」を想像してしまいますが、決してそうではありません。当時の錬金術研究は、ある物質をその物質たらしめている精(エリクシール)を取り出すことを目指すものであり、さらには生命の根源を作っていると考えられていた精(エリクシール)を取り出すことで不老不死を達成しようとするものでした。


つまり錬金術とは現代で言う化学であり医学であったわけです。金の精(エリクシール)を取り出すことができれば不老不死を叶えられるのではないかという発想は、時間とともに錆びや変色が生じる卑金属と異なり、永遠に輝き続ける金の中には生命の源が存在するように思われるとこから出てきたのでしょう。


錬金術の試みの中では、硫酸、硝酸、塩酸など多くの化学薬品が発見され、様々な実験道具も発明されました。また、様々な金属の精錬技術も錬金術の中から生まれました。これらの成果は実際に現在の化学、工学に引き継がれ、医学の進歩にも寄与しています。


こうした成果の一つとして、水蒸気蒸留法によるエッセンシャルオイル(精油)の生産方法の確立があったわけです。水蒸気蒸留法の原理自体はとても簡単なものです。下の絵のように、原料植物の中に水蒸気を通し、水蒸気と一緒に気化したエッセンシャルオイル成分を、冷やして液体に戻すことで取り出すものです。


簡単な原理であったため、おそらくイブン・シーナ以前の時代にも水蒸気蒸留によってエッセンシャルオイル(精油)が製造されたことはあったと考えられています。パキスタンの古い遺跡からは、水蒸気蒸留に使われたのではないかと推測される道具類が発見されています。

水蒸気蒸留法

エッセンシャルオイル(精油)の蒸留器

このため、通常イブン・シーナのことを水蒸気蒸留法の発明者とは呼びませんが、彼の功績で確立されたエッセンシャルオイル(精油)の製造技術は中東からヨーロッパに広まり、その後のアロマテラピー発展の萌芽となります。


こうしたことから、イブン・シーナは近代アロマテラピーの創建者と呼ばれるルネ・モーリス・ガットフォセジャン・バルネマルグリット・モーリーと並んで、アロマテラピーの発展に最も大きな貢献をした人物の1人と言って良いでしょう。

イブン・シーナの生涯

医師としての名声を高めていったイブン・シーナは、サーマーン朝の君主の病気を治療したことから信任を得て、王室の図書館を自由に使うことを許されます。18歳までに全ての蔵書を読破したといわれ、自ら「18歳にして全ての学問を修めた」と述懐しています。驚くべき天才ぶりが伺えます。


19歳のときにサーマーン朝が滅び、21歳で父を亡くすと生計を立てることが難しくなり、イブン・シーナはブハラを去ります。カスピ海の東岸一体のホラムズ地方に移り、その地の統治者マームーン2世に仕えて『医学典範』の執筆を開始します。


その後、カスピ海南岸のジュルジャーン、テヘラン近郊のレイと執筆活動を続けながら居を移し、ブワイフ朝が統治するハマダーンに至ります。ハマダーンでは、ブワイフ朝の君主シャムス・ウッダウラの侍医となり、その後能力を買われて宰相となります。昼は政務、夜は講義と研究、執筆を行うという多忙を極める日々を送りました。1020年にハマダーンで『医学典範』を完成させます。『医学典範』はヨーロッパでは17世紀まで、インドでは20世紀までの長きに渡り、大学のテキストとして使用されてたほど、当時の医学に大きな影響を与えました。


シャムス・ウッダウラの死後、イラン中部のエスファハーンへ移り、政務から退いて研究、執筆活動に専念したいとイブン・シーナは考えましたが、この地でも君主アラー・ウッダウラから宰相を命じられ、願いは叶いませんでした。宰相としての仕事は激務でした。エスファハーンは当時戦争を繰り返しており、軍事遠征への随行も度々行ったようです。1032年、 敵国ガズナ朝の攻撃を受けた際にイブン・シーナは蔵書を含む財産を奪われ、書き上げたばかりの著書が散逸するなどの苦難に合います。さらには、病になった際に奴隷の裏切りでアヘンを飲まされ、財産を奪われてしまいます。この後イブン・シーナは窮乏から立ち直ることは最後までできませんでした。


1037年、激務によって身体をむしばまれたイブン・シーナは遠征の行軍中に倒れます。敬虔なイスラム教徒として毎日コーランを朗読しながら、6月18日にイブン・シーナはこの世を去りました。


『医学典範』のほか『治癒の書』『指示と警告』『救済の書』『科学について』『動物の諸本性』など膨大な著書をイブン・シーナは残し、イスラム世界からヨーロッパまで多大な影響を与えました。また、彼には弟子達がおり、長く行動を共にした愛弟子のアル・ジュジャニーはイブン・シーナの伝記をしたため、その生涯を後世に伝えています。



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